100人いれば
100通りの信心。
御僧侶の口から出てきたのを聞いたときハッとさせられたものだ。
組織が同じだと信心も同じだと思いこんでいた。
ところがよく考えると同じ組織に所属していても、「あなたにとって信心とはなんですか?」と聞かれると答えは三者三様。バラバラだろう。
そういえば顕正会を抜けて御僧侶のお世話になり始めた頃に、皆に対して「なんのために信心するの?」と問い掛けられたことがあった。聞かれた人は「幸せになるためです」「成仏するためです」と答えていたが。さて自分はどうだろうと考えた。人間らしく生きるためという答えが出た。この思いは今も変わっていない。
さて、タイトルに戻る。100人いれば100通りの信心。これは本尊にも該当するだろう。100人いれば100通りの本尊。ここで物体としての板や紙の本尊が現れれば説明は簡単。「あれが本尊です」。これでおしまい。ではその実態はとなると。三者三様。
そうなると、目に見えるものは信心の糧になるから、あるいは組織運営のために便利だから生み出されたのだということになる。宗祖が悟った本尊を、目に見えるように表したのは他者の信心修行の便宜のためだろう。自分一人だったらなにも目に見えるように表現する必要はない。弟子がいたから自分が悟った世界を目に見えるように表現したということになる。
こう考えると、日蓮正宗で御本尊様に「なんとかしてください」と祈ったり願ったりするのは筋違いということになる。
宗祖が見た世界は何かを理解しなければ本尊の価値はない。リンク先の「戒壇の本尊とは」を参照して考えてみてください。
宗祖が表した本尊は、順も逆もない一味の世界を表しているのではないか。(教わったような気もする。。)その世界に賛意を示し、これを現実の世界に実現させたいと手を合わせているのです、というのが今自分が考えるところの信心ではなかろうか。
ただ、そこに生活というものが絡んでくると、人間関係や銭や健康やと話がややこしくなって混乱するのではないかな。
信心は日常生活だと教わっているので、そこで妙法蓮華経(本尊)に身を任せるという作業が必要になる。
結果を求めるのではなく。