開目
「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢずらむ。此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の、未来日本国当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみともみるべし。」正信会教学部の日々命訓より
前にも触れましたが。。
宗祖はなぜ「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。」と書いたのか。
スーパー御本仏なら、首はねられなかったんだぞ。とエラソーに書かないと。
「返年の二月雪中にしるして 、」とありますが、開目抄、観心本尊抄、撰時抄(撰の時は日々命訓ではちょと違う)も日蓮の魂魄が書いた、形見とみるのが妥当でしょう。
それに開目。
なにに開目したんでしょうね。
なにものが開目したのか。
いままでなにに目を閉じていたのか。
いままでなにものが目を閉じていたのか。
何者のところで「日蓮」とみているのが今の日蓮正宗では。
ここは「日蓮の魂魄」じゃないと。
日本語の読解力の問題です。
「かたみともみるべし。 」です。
「日蓮」は不正解です。
「日蓮」で考えると失敗します。
「日蓮の魂魄」でなければ。
もうすでに現実の世界を離れてしまっているのでは。
首をはねられたことによって、日蓮は死んだ。
そして日蓮の魂魄が目を開いた。
新しい時代が始まった。ということでは。
開目というのは、なにに開目したかではなく、なにものが開目したか。
日蓮の魂魄が開目したという主張でしょう。
スーパー御本仏が開目(覚醒)した。ではないでしょう。
なにものが開目したかが、はっきりすると、なにに開目したかも分かるのでは。
いやー、皆目見当がつきません。というのが今の日蓮正宗ではなかろうか。
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いまの日目上人の目はこっちだったりして。。
三祖日目上人の目は開目の目かな。御伝土代の6世日時上人の時は撰時の時かなと思ったりもしています。