転重軽受法門
毎朝の勤行のあとに正信会発行の日々命訓~聖人の御義に生きる~と法華ごころを拝読してるんですが。
五日は、転重軽受法門でした。
そこには「法華経は紙付に音をあげてよめども、彼の経文のごとくふれまう事わ、かたく候か。」とあります。
経文に書かれているとおりの言動は難しい。
これは勤行していてもそのとおりの言動は難しいと解釈できますよね。
そして法華ごころP290我が心の中の仏ー湧現のためのお題目には、「仏の円満具足の心が、自分の心の中にあるとは到底思いがたい。仏と抽象的にいわれればまだしも、教主釈尊が我が心に在(ましま)すなどと、誰が信ずることができようか。」とあります。
つづいて、「そのことを実感として知るには、妙法を無二に受持信行するに如(し)くはないと仰せられるのである。」とあります。
最近、リンク先Blog(初代講頭座談会)の「妙法蓮華経の功徳」を打ってたんですが、そこには「やるべきことはやった。あとは大聖人様の御計らいを待とう。南無妙法蓮華経と。そこに自分自体が信じ切れて、大聖人様の妙法蓮華経の計らいというものがあった時に、その間際において法身如来という一つの姿が出てくる。信じ切れているから。疑いがないから。傍(はた)から見たときには、あの人は仏様じゃなかろうかなという振る舞いが始まる。何一つ怖じるものがない。今まさに息を引き取ろうとするような状況においても平気の平左でおれるなあと。大変なことなのになんでなんだろうねえ。言葉ではもう言えない。我々が何でと考えても判断のしようがない。そういう姿を現す。現証。これが妙法蓮華経の功徳だよな。」とあります。
最初の転重軽受法門で思ったのは、いくら信心をしていますと言っても、人を馬鹿にしたり地獄へ落ちるぞと平気で口にするのは間違っているということ。
正しい信心をしていると思い込んでいるだけで、経文のとおりの言動なのかどうか自省が求められます。
宗祖は難しいと仰ってるんですから。
そのためには、法華ごころによると妙法を無二に受持信行するしかないと宗祖は仰っていると。
それを具体的に語っているのが「妙法蓮華経の功徳」だと思います。
何事も繋がってるんだなあと思いました。