謗法3

2024年03月31日

大石寺法門P372~P387に「己心の法門」「己心と心」があります。

そのとおり、謗法ではなく己心について説かれてるんですが。

自分はブログ「謗法」で、謗法は絶望と読み替えてもいいと書きましたが、関連するようなことが書かれています。

「信は信頼、真実、信念などとつながってゆくもので、信心、信仰はむしろ特殊なつながり方である。」と。

信頼、真実、信念のあるところ、絶望はないでしょう。

謗法とは、信のないところ。

絶望です。

孤独です。

では、この日蓮大聖人の仏法が説かれているところはどこか。

開目抄にあります。

「此れは魂魄佐土の国にいたりて」です。

「謗法2」で書いたように、仏教ではなく世法でもないところに宗祖の仏法は立てられている。

それが今はこんがらがって、仏教の中にあるようになってしまった。

宗祖の魂魄が佐土の国に至る、とは、どういう意味か。

よくよく考える必要があるでしょう。

ちなみに「魂魄」で御書を検索すると2件(どちらも真蹟)しかありません。

 四条金吾釈迦仏供養事

御書に書かれているじゃないかと言う人は、釈迦仏の木像でも彫っていてください。

宗祖の真意はなにかを追求することが大事でしょ。

それは己義だ、などと言わないでね。

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