衣裏繋珠
みんな大好き「衣裏繋珠(えりけいじゅ)」というわけで、検索すると結構引っ掛かります。エリ繋珠というから服の襟の中に縫い付けたと思っていたよ。本当に。まあ、こんなものです。
でもなんで親友は無価の宝珠を衣の裏(”裏”になってるなあ。”中”じゃなくて裏なら着るときに気が付くんじゃないか)に繋けたんですかね。疑問は湧きませんか?宝珠と書置きでも残しとけばいいのに。盗まれないように衣の裏に隠したということか。書置きを残す発想はなかったのかな。即興のたとえ話だからこの程度でいいのかも。。
さて、無価の宝珠とは如来の智慧ですね。これを宝珠だからと、金だとか玉だとか思っちゃうとまずいわけでしょ。もっとよこせと親友に言っちゃいそうです。
宝珠を仏から授けられた、でもいいんでしょうけど、ここはやはり生まれながらにすべての人が(信不信に関係なく)もっていると解釈したいところです。授けられたでは、もっとよこせと言いかねません。
リンク先の大白法の記事が一番物質欲的で素敵ですね。大石寺の体質でしょうか。真の幸福とは何かが書かれていない。御題目を唱えて功徳を積むと喜びに満ちあふれた毎日が待っている。物に囲まれた生活、安楽な生活が待っていると誤読しそうです。
私が正信会(任意団体)の御僧侶や法華ごころから学んでいるのは、南無妙法蓮華経と唱えることそのものが目的、成仏なのだということ。住職の奥さんは「南無妙法蓮華経の世界にどっぷりとつかること」と言われてましたっけ。真蹟はないけれど四条金吾殿御返事の「南無妙法蓮華経と唱るより外の遊楽なきなり」です。
大白法の「御題目を唱えて功徳を積む」は、御題目が手段になっている。南無妙法蓮華経と唱えることが真の幸福でしょ。日蓮大聖人と不軽菩薩が礼拝しあう「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」の世界を感じることが功徳。
南無妙法蓮華経と唱えて功徳が来るのを待ちましょう。これでは宗祖からお叱りを受けます。金・玉が来るのを待っていたらアホかと言われますよ。大石寺大丈夫でしょうか。
ちょうどSpotifyでとんねるずの情けねえが聴こえてきたんですけどね。「みんな時代のせいだと言い訳なんかするなよ人生の傍観者たちを俺はゆるさないだろう」と。ささやかながらも、こうやって書いてるのは傍観者じゃありませんよということで。
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