自立した
2020年12月05日
このサイトでいろいろ考えていると「自立」ということに行き当たった。
それは組織の言いなりになる信者が多いから。
百日間唱題行をやると組織が決めたらやる。。
こういうのは本人がやると決めて、黙ってやればいいわけです。それが自立。
方便品には、「童子の戯れに、沙を聚めて仏塔を為せる、是の如き諸人等、皆已に仏道を成じき」。
妙心尼御前御返事には、「病によりて道心はをこり候なり」。
十字御書には、「抑も地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、・・・我等が五尺の身の内に候とみへて候」。
白米一俵御書には、「凡夫は志ざしと申す文字を心えて、仏になり候なり」。「法華経はしからずやがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」。
これらは誰かではなく、自分が主になっている。
不軽菩薩が人々を礼拝したのも、熱原の法華講衆がお題目を唱え続けたのも、誰かに言われたからではないと思う。(法華講衆 は励まされたかもしれないけど。。)
自立してないと日蓮正宗の信仰は成り立たないのではないか。
法華ごころを読むと、こういうことに気づきますね。