百人いたら

2021年10月27日

「百人いたら百通りの信心」。

これは御僧侶から聞いた言葉だったと思うけれど。記憶力に自信はありません。。

信心は同じものを見て拝んで、同じものを目指している気がしていたけれど、この言葉で、ああ人それぞれ違うんだなあと思った記憶が。。記憶力に自信はないけど。

もっと言うと、違って当たり前。たとえば、本尊が違うと信心は別物になりますよね。

同じ本尊を信じているようでも、「南無本門壽量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境地冥合・久遠元初・自受用報身如來の御當體・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・獨一本門戒壇の大御本尊・御威光倍增御利益廣大御報恩謝徳の御為めに」。この本尊の解釈は人によってバラバラなはずです。

ということは、百人いたら百通りの本尊を信じているわけです。もちろん、御観念文が変わってしまった団体もありますが。。御僧侶は、御観念文が変わると生き方が変わると批判、憂えていた。もちろん記憶力のなさには自信があります。

前回の「読解力」に続いて「百人いたら」と書いてきましたが、どうも言いたかったのは、言い争ってもあまり意味がないのかなあということ。人それぞれ知識の量が違って、理解の度合いが違って、信じている本尊も違う。自分の信じていることを言っても相手には通用しないということです。

やはりしゃべるよりも考えることに重点を置いたほうがいいのかなあと思った次第。

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