白米一俵御書
リンク先でも、好きな御書だと紹介した白米一俵御書。最後の部分ですが。
「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず・心すなはち大地・大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり。 此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらず・すなはち命なり」。
爾前の経ではダメですよね。
だけど。。
「譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとし」とか「心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし」とか聞いたら、うんうんと納得するのではないで創価。
「月こそ心よ・花こそ心よ」と言われても何のことやら。。
宗祖は何を言いたいのか。
よく考えてください。
「心のきよきは花のごとし」はダメ。
「花こそ心よ」が正解。
どういうことか説明できますか?
説明できない人は爾前の経の信心かもね。
大問題です。
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正解は、前段にある「彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」でしょうね。「まことの・みちは世間の事法にて候」です。
世間の法が仏法なんだ。
常識が道理が愛情が平和が仏法なんだ。ということでしょう。
月を見て心が澄むのではなくて、月を見て自分が澄んでいる月そのものになる。
月が主で自分が従ではなく、自分が主になる、月そのものになる。
そうすると白米は命だという答えが導かれる。
「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」です。
宗祖は白米を送るという志を持った送り主に仏を見ているはずです。
これは逆次の読みといって、、もういいか。。
参考:法華ごころP31