熱原法難の御書
前回の続きのようなものです。熱原の法華講衆について関連する御書を並べてみます。
1.聖人御難事。P1189 。弘安二年十月一日。「彼のあつわらの愚癡の者ども」
2.伯耆殿等御返事。P1456 。弘安二年十月十二日。「熱原の百姓等」
3.聖人等御返事。P1455。弘安二年十月十七日。「彼等」
4.上野殿御返事(竜門御書)。P1560。弘安二年十一月六日。「あつわらの事の・ありがたさ」
1.について。宗祖は二十七年で出世の本懐を遂げたと書いていますが、何回拝読しても何が出世の本懐なのかピンとこなかった。。ポイントは「況滅度後の大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだ値い給はず」でしょうか。それに対して宗祖は「而るに日蓮二十七年が間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし」と主張するわけです。それに加えて「当時までは此の一門に此のなげきなし、彼等はげんはかくのごとし殺されば又地獄へゆくべし、我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん」。此の大難とは熱原法難のことでしょう。我等です。宗祖の弟子の日興上人、その弟子の日秀、日弁等、その弟子の熱原の法華講衆。宗祖に会ったこともない熱原の法華講衆が逮捕連行されるという大難にあった。宗祖は自分が会ったこともない法華講衆が南無妙法蓮華経の信仰ゆえに刃傷沙汰にあい、ついには龍ノ口の法難と同じように幕府の権力者である平左衛門に逮捕連行(御僧侶からお聞きしているところでは、彼らは下人だから死罪は必定とのこと) されたことから、報恩抄の「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」の確信を得たことが出世の本懐かなあと思います。
2.について。最後に「下」とあります。御僧侶からは、これは宗祖が仏国土を与えたものだと説明を受けました。以下のとおり。
伯 耆 殿
日 秀
日 弁 等 下
日秀、日弁等が宗祖から仏国土を賜ったということは、「聖人」の資格があるのではないでしょうか。
(訂正:寺報(2021年11月号)によると「伯耆殿等御返事 」の「下」は熱原の衆に対してとのこと)
3.について。「彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云」とあります。この時宗祖は初めて熱原の法華講衆が殺されたことを知ったはずです。そうなると「彼等御勘気を蒙るの時」とは、逮捕連行された時ではなく、処刑された時になります。宗祖にとって処刑自体は覚悟していたことかもしれませんが、そのとき熱原の法華講衆は南無妙法蓮華経で応えた。大石寺法門P230には、「一言摂尽の題目は師弟共々に唱えた題目(原典は一言摂言になってる。。) 」とあります。聖人等御返事の聖人等とは誰のことでしょう。伯耆殿(日興上人)、日秀、日弁等、そして熱原の法華講衆も入れましょうか。
4.について。本文は処刑されるときに南無妙法蓮華経と応えた熱原の法華講衆をたたえるような内容です。以下のとおり。
かれは人の上とこそ・みしかども今は我等がみにかかれり、願くは我が弟子等・大願ををこせ、去年去去年のやくびやうに死にし人人の・かずにも入らず、又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしともみへず、とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ、法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云、恐恐謹言。
十一月六日 日 蓮 花押
上野賢人殿御返事
此れはあつわらの事の・ありがたさに申す御返事なり。
前回も書きましたが、「あつわらの事の・ありがたさ」とは、熱原の法華講衆が処刑されるとき南無妙法蓮華経と誰を恨むことなくお題目を唱えたことではないかと思うわけです。上野聖人が上野賢人と書き直されているというのも、聖人とは伯耆殿(日興上人)、日秀、日弁等、そして熱原の法華講衆であって、上野殿はちょっと今回は遠慮してもらって賢人に書き換えたのかなというのが、私の想像です。