滅後末法と己心
2022年09月24日
阡陌陟記や大石寺法門には「滅後末法」という言葉が出てくる。
大石寺法門P185には、「末法とは滅後末法であり、己心の上に立てられた時であるが、在世の末法と混乱する恐れがある。今は或は在世をとっているかも知れない。日蓮大聖人というのも滅後末法即ち仏法に限られるが、今は在世で考えられているかも知れない。在世は仏、滅後末法は本仏という。在世末法は無仏の世であり、今は混乱のために末法に本仏が出現することもある。」という具合。
正法千年、像法千年、末法万年といわれますが、現実世界の末法に仏はいない。
いや、正法、像法にもいないか。
仏は釈尊(お釈迦様)ただ一人。
これは現実の時間軸で考えられていること。
仏教は成仏することを目標とする。
しかし現実的に成仏は不可能。
そこで己心の上での成仏を目指す。
大石寺法門P372には、「時々、己心とはどのようなものかと定義付けを求められることがあるが、若しこれが説明出来れば本仏日蓮大聖人である。」とある。
己心とは空想でもないし思考でもない。
見えないけれど間違いなくあって無始無終。
宇宙とともにあるものではなかろうか。
いまのところはこのへんで。