法華取要抄の逆次
このところ、「逆次」が続いたので。
ちょと整理しようかなと。「ちょと」も飽きてきたな。。(法華ごころP22に「チョト」と出てくる。この影響です)
法華取要抄そのものを取り上げてみようかと。
「問うて曰く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り上より下に向て次第に之を読めば第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり、安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す」。
末法の衆生を救うために法華経は説かれたということですよね。
日蓮のために法華経は説かれたと。
これが逆次の読みでしょう。
そうすると逆次になった場合、自分が主にならなければ。従ではダメ。受け身ではダメ。
なにせ法華経は日蓮(自分)のために説かれたんだから、仏(釈尊)が主ではなく、自分が主になって法華経を色読しなければ。法華経の行者日蓮です。
法華経を説いてくれて有難い有難い南無妙法蓮華経で終わってしまっては従です。
ということは、「日蓮大聖人直結の信心」とか「日蓮大聖人仰せのままの信心」とは、言われたとおりにすることではなく、自分が主になるということ。
たとえば、報恩抄の「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」は、日蓮さんの慈悲は広大だ、有難い有難いではなくて、自分が主になって、日蓮が慈悲を未来までも流れるようにするためには(自分は)どうするのか。ということになる。
これが仏法ではなかろうかと。
法華ごころP34。「ところで前項で、『白米一俵御書』を取り上げて、観心の法門とは凡夫の志ざしであることを述べた。そしてここでは、一念三千と妙法受持と凡夫成道と、加えて不軽の行は同義であり、その根底はやはり凡夫の志ざしであると示されている」
三十二相を備えてなくても、その人(の己心)に仏を見る。
これが仏法でしょう。
罵りあうのが仏法とは思えない。
そういうわけで組織信心は嫌い。
言われるがままの従だから。
仏法じゃないよね。
(葬式、いや組織信心の話になってしまったけど、まあ、いいか)
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参考:法華ごころ P28 小善成仏
P32 一念三千
P170 滅後のためなりー法華経の構成を知れば
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稲盛氏の処し方も、自分を主にする仏法ではなかろうか。