水のごとく信ずる人
高校2年の時の話。年に一度、全校マラソン大会があった。走り終えると飴玉をもらって教室へ帰る。その時、同級生の(可愛い)女子が一人で先を歩いていたんだけど、廊下に落ちていた飴の包み紙をさっと拾って、そのまま教室へと向かった。なんの淀みもない一連の動きに、かっこいいと思った。それ以来、ゴミは拾うようにしてるんだけど、誰か見てないかな?
このエピソードのように信じるということも、意識することなく呼吸するように身についているのが理想でしょう。
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上野殿御返事
抑今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり
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さて、上野殿御返事。火はすぐに消えちゃうけど水はなかなか蒸発しないということかな。「水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり」とあり、「いつも」とあるように、身についていることが「いつも」でしょう。
そんな中、あるサイトの文章が目についた。
第五十九世堀日亨上人は、
「信仰の風格にも、各自の本然の気質をうちだすものである。温良な人は、水の消極的の微温な信仰になりやすい。猛烈な人は自然に火の信仰になる。欲をいえば、火の信仰を水の信心に続かせたい。すなわち、熱湯の信仰というべきであろうか」と御指南くださっております。
日蓮正宗清涼寺法華講 「あなたは火の信心?水の信心?それとも・・」
日亨上人の仰せながら、これには違和感がある。欲張りすぎておかしくなっている。(欲をいえば、とあるので間違いないでしょ。)温良な人は温良に。猛烈な人は猛烈に。水のごとく信ずる、でいいじゃない。熱湯の信仰じゃ自分も周りも火傷してしまう。。
信心は自分の身についた、身の丈に合ったもの。熱湯は身につかない。熱湯浴びたらアッチーッチーだ。火は燃える時パチパチいうけど、水は静かなもの。
信心してます信心してます、という姿を日常生活に見せる人は信のない人。戎定恵の三学を心得て、日常生活を静かに送る中で自然に信力を発揮するのが、水のごとく信ずる人でしょ。(初代講頭の指導より導いた答え。)