正直
リンク先のブログで、初代講頭の座談会を入力していたら以信代慧の話でした。
で、思い出したのが令和3年5月の子供の転落骨折事故。
自分が何をしたわけでもないけれど、周りの人のおかげで何の問題もなく元に戻っていった。
以信代慧は信仰している自分ですが、骨折した子供本人はどうだったのかについて最近考えていたことを。
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子供は、諌暁八幡抄の「今、八幡大菩薩は、本地は月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらんと云々。 」というのを実践したのではなかろうかと考えていたんですね。
どういうことかというと。
正直というのは噓をつかないというよりも素直になるということですよね。
当日の状況を説明すると。。
事故の知らせを聞いて(帰宅したら家に誰もいないのでこちらから問い合わせたんだけど。。)、そして、ご飯食べて(冷たいって?)、お題目唱えて、病院へ向かいました。
子供はまだベッドの上で苦しそう。
スケジュールの都合ですぐには手術できない。
「早く手術して」って言ってましたね。
ああ、これは宿命なのか宿業なのか、痛い思いをしっかり受けてるなあと思って。
早く手術してくれと思うよりも、これなら大丈夫だなと思いましたね。
これだけしっかり受けてるんだから、あとは大丈夫だろうと。
その後、手術中に、医者の説明ではケガはひどいようだと妻から聞いて焦ったけど。。
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子供は「早く手術して」の一念だったわけです。
もう自分の力ではどうにもならない。
正直に素直になっているわけですよ。
他にどうしようもなかったからだけど。。
自然に正直になっていた。
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考えてみると、自分の思いどおりになることなんてない。
この世に自分一人しかいないとしたら、何ができるだろう。
何もできない。
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そういう中で応急処置してくれたり手術してくれる人がいる。
仏が人の身に入れ替わっている。
宗祖は「貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて、今、百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給うか。」
2022年10月の寺報には、戒体即身成仏儀に「梵天・帝釈の天衆たるも、竜神・修羅の悪道の身も、法華経の座にしては皆人身たりき。」
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初代講頭の指導を思い出す。
一切を妙法蓮華経と信じて、正直に妙法蓮華経に身をゆだねる。
これが肝要ではなかろうかと。
ああでもない、こうでもないと自分の知恵でジタバタするのは迷ったまま。
妙法蓮華経に身を任せる、御本尊様に一切をお任せするというのは、仏の智慧をいただくこと。かな。