業報

2021年05月08日

子供が骨折入院して、思い出したのがリンク先の「初代講頭の伝言」にある以下のこと。

「過去の業報によって自分が痛めつけられる。子供が子供がと言ってもそれは自分の業報なの。人によって(業報の)姿を見せられる。親の介護をする。周りからは大変ですね、親孝行ですねと言われても、それは親が自分の業報を示している。やる限りにおいては楽しくやったらいい。にこやかに。そして業報を乗り切ればいい。人に託して(業報が)見えてくる。大聖人は人と人との関係は鏡の如しと仰られる。業報だけは逃れようがない」

まあ、救急車で運ばれて入院した、手術するだろうと聞いた時には。。どうしたものか。祈るのか。祈らないのか。手術が終わって帰宅しても、祈るのか。祈らないのか。

「みなさんは考え事が智惠だと思っている。大聖人様は南無妙法蓮華経が智惠ですよと仰る。これを外護の智惠という 」

結局、祈ったんですけどね。事後ですけど。。普段の信心が大事だと痛感した。

本当に何が起こるか分からない。業報を乗り越えるといっても、生半可ではないなと。小さなものならいざ知らず、大きなものになったらオロオロするしかない。

そんな中で、業報の正体、乗り越え方を知っていたのは功徳です。

なかなか、にこやかに、とはいきませんが、子供の問題ではなく家族の問題ととらえて進んでいければなと思います。

追伸

ケガをしたとき、人が集まってきて、添え木をしてくれたり(たまたま本職さんがいたらしい。。)、冷やすのを持ってきてくれたりしたそうです。これが諸天善神かなあと思いました。

法華ごころP190によると「今度の命たすかり候は偏(ひと)えに釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候か」と大聖人は四條金吾殿に書き送っています。人間に諸天や仏を見るのもまた仏法かなと感じた次第です。

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