明けましておめでとう御座います。

2023年11月23日

 己心の一念三千法門を狂学と唱え狂った皆さん、今年の初夢は吉と出たか凶と出たか、是非、伺いたいと思います。一日は一陽来復といい、太陽が此の土に来たり復する日であり、二日は地の若水(わかみず)を汲んで合せて天地の恩徳を謝する日である。来復とは還帰(げんき)と同じであって、還帰した処は一言摂尽である。一年二年三年と向うへ進んでゆくのではない。元日の中に一切の日、一切の年を含んでいるという意味である。元初の一日これを元日という。還滅門である。二日は若水を汲んで地の徳を謝し、自らの寿命を昨年の二日に帰す。天地の不老不死は自らの不老不死、そこに寿の長遠(じょうおん)を見ようというものである。法華経では父少子老の譬をもって寿の長遠を表わしている。客殿の木像もまた同様である。父少は本因・還滅門を表わし、子老は本果・流転門を表わしているように見える。所謂本因本果の法門である。韓国の高僧が来朝して聖徳太子にお目にかかったとき、いきなり、「お父さん、おなつかしゅう御座います。」といったという話がある。太子には父少の要素があったものか、法華流布の願望がこめられているようであり、何れも魂魄の上の話である。

 さて、開目抄には有名な、魂魄佐渡にいたるという語がある。宗祖はここに己心の一念三千法門をたて、大石寺はこれを宗として一宗を建立しておる。この聖語には寿の長遠という意味が充溢しているように見える。ここに一宗を建立したことは宗門の長遠の祝福の意をもっているのであろう。しかも今の宗務当局はこれを狂学と称してこの法門の抹消をたくらんでいるかに見える。七百年続いた宗門の長遠を断ち切ろうというのであろうか。何とも解せないところである。長寿は万人の望むところ、宗務当局は何故短寿を求めるのであろうか。或はもっと立派な法門でも見つかったというのであろうか。雲の上のお話は一向に無縁のものである。さてさて宗祖直々の御判断、如何なものでしょうか。

昭和五十八年一月

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阡陌陟記P276、仏道雑記(八)の前文です。

小春日和の今日ですが、ポカポカしながら「一年二年三年と向うへ進んでゆくのではない。元日の中に一切の日、一切の年を含んでいるという意味である。元初の一日これを元日という。還滅門である。二日は若水を汲んで地の徳を謝し、自らの寿命を昨年の二日に帰す。天地の不老不死は自らの不老不死、そこに寿の長遠を見ようというものである。法華経では父少子老の譬をもって寿の長遠を表わしている。」と、こういう文章を読むとゆったりとおおらかな気持ちになりますね。

阡陌陟記や大石寺法門を読み返していると、当初とは違った感想を持ちます。最初は宗門の批判が多いので読みにくかった。批判をはさまずに法門のことを書いてくれと思ったけれど、今は素直に頭に入ってくるような気がします。「読書百遍意自ずから通ず」とは、百回読めば理解できるようになるという意味じゃなくて、百回読んでる間に自分自身が変わるんだ、ということかもね。

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