教が先か行が先か
法華ごころP254に卵が先か鶏が先かということで、法がエライか仏がエライかが論じられています。法が先行するのは日蓮正宗の常識ですが、ともすれば今は仏が先行してるんじゃないかなあとは思います。仏というより人や板かもしれません。依法不依人は鉄則です。人法一箇の言葉に目がくらんでいるのでは。
法が勝れているのか仏が勝れているのか。どちらも大切ですが、大きなコップと小さなコップがあって大きなコップに小さなコップが入っているとすれば分かりやすいかもしれません。法という大きなコップに仏という小さなコップが入ってる。それで人法一箇というか仏法一箇。ということでしょう。
法か仏か、と似たような関係に教と行があると思います。教が先か行が先か。教がエライか行がエライか。間違ってたら話にならないので教が先なんでしょうけれど。教が大きなコップで行が小さなコップ。教の中に行が入ってる。
日蓮正宗の場合は、教は法だと思うので法で考えてみます。大きなコップの上行菩薩(法)と小さなコップの不軽菩薩(行)。師弟一箇、師弟子の法門というのは、大きなコップに小さなコップが入ってるとすれば理解しやすい。
そして次に互為主伴ということもある。互いに師となり弟子となる。一箇した後に互為主伴です。師と弟子が立場を変えることもある。
さて、この項、タイトルのことについて書こうと思ったらいろんなことが浮かんできてまとまりがつかなくなりました。
宗祖曼荼羅は不軽菩薩を礼拝する日蓮ではないか、自分たちが曼荼羅に向かうとは、日蓮と不軽菩薩が礼拝しあう姿ではないかと気が付いてから、法華ごころや大石寺法門を読んでも、とらえ方が変わったように思います。今までは軽く読み飛ばしていたようなところも筆者はこう考えていたのかとか、もう少し深いところで読めてるような気がする。
視点が変わる、新しい視点を持つというのは大事なことだなあと思いました。同じ文章でも新しい発見がある。自分が変わったということでしょう。
組織にどっぷりつかっていると視点が変わることはありませんよ。
うーん。タイトルのことを書こうとしたんだけれど。ねえ。