悟った仏と悟っていない仏
悟った仏の信仰とは、その悟った仏に救ってもらおう、助けてもらおう、御利益をいただこうというものだろう。しかし、悟った仏が本当に迷っている人を救うのだろうか。仏の教えを広める者は菩薩だと言われる。悟った仏は何にもしない。人を払うと書いて仏だから。悟った仏にとって人とは、自分と無関係の存在だろう。人のことは「ほっとけー」だ。
悟った仏に救ってもらおうとする信仰の代表は浄土教だろうけど、来世で西方極楽世界に往生するもので、生きてる今、救いがあるわけではない。悟った仏が救ってくれるのであれば、生きてる(信仰してる)うちに救いがないと困る。人類史上唯一悟ったのは釈尊だけど、今はどこで何をしているのか。
そういうわけで、法華経の登場となったんだろうけど。「法華ごころ」P260には、法華経と爾前経との違いは当意即妙不改本位で凡夫が凡夫のまま成道する点、そして十界互具が基調となって自身一人での成道ではなく他者との関係において成道を見ていく点にあると指摘されている。
悟った仏は救ってくれないし、自分一人でも成道は遂げられない(釈尊は除く)。悟っていない仏の信仰とは師弟相対、師弟一箇の刹那成道にある。と「法華ごころ」は教えてくれるし、初代講頭も日蓮正宗で一番大事なのは刹那成道だと説かれる。
師弟子の法門、師弟相対ということについて、もっと考えてみたい。
参考
ちょうど拝読してた「日々命訓~聖人の御義に生きる~」の廿三日のページに「本尊問答抄」があって、そこには「答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ。私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。其の故は、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり。」
で、廿四日のページには「願はくは此の功徳を以て、父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候。其の旨をしらせまいらせむがために御本尊を書きおくりまいらせ候に他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給ひ候へ 。」(ちなみに昔は「御不審を書きおくり」でしたが、今は「御本尊を書きおくり」に修正されているようです)
仏<本尊。となると仏が悟っていても悟ってなくてもいいんじゃね。
後世を祈ってるしなー。
いろいろ考えることが増えた。。