御書を読んでも他人事
2021年01月16日
日蓮正宗界隈では、本なり近年では動画も。まあ、あまり動画は観賞しませんが。。自説を得々と述べる人がいますよね。
日蓮大聖人は、立正安国論を書く前に経典等を調べ直されたというし、開目抄には「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」とあるので、お互いに儒教、外道、内道(仏教)は学んでいるのが前提でしょう。
どうも学ばずに述べてる人が多いような印象です。謗法だ謗法だと嫌わずに学びましょう。大聖人の仰せです。学んでいないのであれば口も態度も慎むべきです。
さて、大聖人が晩年「戒体即身成仏義」を読み返されたら、どう思うでしょう。自負とともに恥ずかしさも感じると思います。
初代講頭の「そのままでええやんか。(強情な信心に)なっていくよ。ああでもないこうでもないとごちゃごちゃ言いながら年数が経っていく。そのうちに言っていることが恥ずかしくなってきだす」という座談会の指導も思い出します。
法華ごころには、若い頃の白隠が法華経を「気の利いた講談話に劣る」といっていたのが、老境にいたり再び法華経を手にしたときありがたさに滂沱の涙を流したとあります。
最近、古い寺報を読み返したり座談会を聞き返したりすると、もうすでに教わっていることを忘れているなあと思うことが多い。
昔(若い頃)のことは捨てなければならないこともあるだろうし、忘れちゃならないこともあるなと。学び続けることは必須ですけどね。「君子曰く学は以て已むべからず。青は之を藍より取りて藍より青く。氷は水之を為して水より寒し」
自戒。自利利他。