御会式に思う
お寺で御会式がありました。
同郷で私を折伏して顕正会に入れてくれた恩人と再会。(紹介者は信仰を離れている。。)
だいたい、春と秋にお寺で会うわけですが。。
今回は、御会式についての話ではないです。
----------
その時の会話で、その人は「他人に助けてもらえるのであれば助けてもらう」という趣旨の発言をしました。(話の流れやニュアンスが難しいけど)
「助けてもらう」というのが、ちょと引っかかるというか受け付けないというか。。
----------
このところ仏法は自分が主になることだと考えていたわけで。
人との付き合いの中で助けてくれる人が現れるのは結構なことだと思うけれど。。
なんかこう、利用できるのであれば利用するというふうに受け取ってしまったのかもしれないけれど。。
人に何かしてもらうというよりも、人に何ができるかを考えるのが仏法では。
エラそうだけど。
みんなが、人に何ができるだろうと考えたら、助けてくれる人は現れる気がする。(言わなきゃわからないって?)
「助けてほしい」は、仏教の信仰。南無阿弥陀仏。阿弥陀さん何とかして。
それに対して仏法。南無妙法蓮華経は、自分が主になること。
といっても、二乗(声聞・縁覚)になることではありません。
法華ごころに、二乗が成仏できないのは、「二乗は利他の行欠けぬ」と宗祖が端的に指摘しているとあったような。(まだ本にあたっていない。。)
それと、前回書いた「しもべのゆのついで」。
宗祖の立場では、よく来たよく来た。
だけど、その人、訪ねてきた本人の立場ではおかしいだろうと。
「助けてもらう」というのは、自分が主ではなく相手が主になってないか。
考えすぎかもしれないけれど。
----------
「自分の生活を見つめ、何をしなければならないか、どうしなければならないかを習うのが仏法」
「あの人が、あの人がと言う必要はない。人じゃないんだ。自分はどうなの。あなたの話で欠けているものがある。御本尊様を信じるということが。信じられないときは、理屈をつけてゴチャゴチャ言ってる。本当に信じられたときは理屈はいらないんだ。一切が妙法蓮華経と信じ、御本尊様に南無していくんだよ」
という、初代講頭の指導。
----------
御僧侶は「100人いたら100通りの信心」と言ってるので。
まあ、違いはあるのかなあと思いますけどね。