年末ということで
バタバタしてたら大晦日。。
さて、自分は2種類の寺報をいただいてます。
お寺からの御僧侶の寺報、そして地元から転出した御僧侶の「たより」。これは法華講のたよりかな。
この秋からの「たより」には、「私達にとっての大本は、南無妙法蓮華経であり、一切衆生を尊んで生きていくこと」「苦しみを持った人がいれば、その人の所に常にいて、その人の目となり、その人の手となり、足となってその人を力づけていく」(9月)「大切なのは、その一人の人間が、その宗教を信ずることによってどう変わり、どういう人間になったかを見ればすぐわかる」「いつでも自分自身を省みて、少しずつでも信仰の徳が及び、自然にすべての人に慈悲の心をもって接していけるようになること」(10月)「私達は、どこかで「信仰しているから悪いことは起こらない。」と思いがち」「私達にとっては、法華経を受持していくことが唯一の遊楽」「それ以外に何もない」「そうすれば、私達自身にこの上ない宝珠が具わっていることに自然と気付く時がくる」(11月)
とまあ、どこかの組織のように、功徳功徳の連呼はなかった。
そして、12月の寺報では、「大願を起こせと」と題して、「祈りの心は、法華経の一念信解の心に叶ってくれば、おのずから浄化されて、一生成仏と一切衆生の成仏を願う弘法の誓願に収斂されてくるはずです。その心は世俗的な御利益信仰から脱皮して無上仏道への志、誓願へと向上してくる」とあります。
そういうわけで、治った、助かった、儲かった、という功徳合戦から離れて、心穏やかに過ごしています。
ちなみに日蓮大聖人の大願は「願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」です。
「此の功徳 」とは、治った、助かった、儲かった、ではないですよね。
それと、「願わくは、我が弟子等、大願をおこせ。」とあります。
宗祖の大願だけでなく自分自身の大願だということです。
功徳だ功徳だとおらびまくる(叫びまくる)のは、日蓮正宗の信仰なのかなあと疑問です。