帰属意識

2022年08月21日

御僧侶からは、大会に参加しろ継命新聞をとれと言われたことがありません。

そういうわけで自分は御僧侶のお世話になっているという意識はありますが、団体行動がないのでお寺の法華講に所属しているという意識はあまりない。

まして任意団体正信会に所属しているという帰属意識はありません。(任意団体正信会の味方くらいかな)

大石寺や創価学会、顕正会の人たちはどうでしょう。

創価学会、顕正会はそのものズバリなので帰属意識はあるでしょうね。

大石寺はどうでしょう。

お寺の法華講に所属しているというよりも日蓮正宗大石寺の信仰をしているというこれまた大石寺への帰属意識が強いのでは。

この帰属意識が信仰や信心にものすごく影響を与えていると思います。悪影響。

まず、所属する組織が違えば信仰が違います。大問題。

そうなると信心も違う。話が通じるわけがない。

さて、宗祖日蓮大聖人御在世の信者さんはどうでしょう。

身延山久遠寺に所属しているという帰属意識はあったのか。

今と違って交通事情も違うし、大聖人のもとを訪れるのも団体行動というよりも一人ひとりですよね。

佐渡の法華講衆参りました、下総の法華講衆参りましたというのはあったのか。

六老僧を中心に各地で布教していたわけだから、それぞれの地域にある法華講に所属しているという意識はあっても久遠寺に所属しているという帰属意識は薄かったのでは。

もっというと日蓮聖人の説く法華経の信仰をしているという意識が第一で法華講に所属しているは第二。

創価学会や顕正会もできたときは信仰とは信心とはどういうものかを考えたはずです。

今は自分はどこに所属しているかが第一でしょう。

組織よりも、どういう信仰かをまず考えなければ。

組織が違うと信仰が違う。

他の組織を批判するのに熱心になって、その信仰はどういうものかがおろそかになってませんか。

組織は正しい、信仰を考える時期は過ぎたと思い込んでいたら堕落が待っています。

信仰も信心も進化すると思わなければ。

信心するのは個人です。

進化して当たり前でしょう。

もともと仏教は国家や貴族のものだった。

貴族には自分は選ばれたものだという帰属意識があったと思います。

貴族仏教ではダメで民衆仏法でなければならないというのは、日蓮大聖人の仏法を信仰するものなら共通認識だと思います。

貴族仏法になってないか。

貴族意識にとらわれると堕落が待っている。

貴族はいなくなりましたよ。

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