己心と肉身
2022年09月12日
最近、阡陌陟記を読み返していて、己心、己心と考えているわけですが。いまだにまとまってないので、だらだらと書くわけですけども。。
やっぱり仏像に、物体に手を合わせる信仰がわかりやすいんですよね。今の日蓮正宗の信仰も日蓮大聖人の魂魄ではなく肉身や物体に手を合わせる信仰に変わってると思います。
己心、己心というと何か空想の世界のような気がしてくる。霊山浄土も空想の世界か。
さて、園のバスに取り残され熱中症で園児が死亡するという事件がありました。ニュースでは、1週間たっても現場には水やらジュースやら供えられていると。
で、このニュースで思うわけです。死んでからジュースを供えられても飲めないじゃないかと。余計、泣いてるんじゃないかと。
供えるとすれば、両親が己心に供えるしかないのかなあと。まあ、赤の他人でもいいのかもしれないけれど。それで果たして死んだ娘は満足してくれるのか。赤の他人は満足するのか。やはり両親でしょう。
死んだ娘は帰ってこない。会えるとすれば霊山浄土か。両親が霊山浄土で水を飲ませてやるしかない。
己心の世界に参入するには資格が必要なのかも。
日蓮大聖人の世界に参入するのも資格が必要か。
さて、どういう資格か。
末法の御本仏であると信じることか。
いや、それもあるかもしれないけれど「日蓮紹継不軽跡」ということから、人の仏性を信じるということではないか。
「南無日蓮大聖人」ではなく「南無妙法蓮華経」です。
一切を仏のごとく尊いと信じること。
なんとか、御僧侶から習ったことに連絡がついたような。
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大石寺法門P116には霊山浄土も己心の法門だから現世成道の上に受け止めるべきとあります。