小宇宙と大宇宙
2022年09月11日
リンク先の「仏法とは」に書き足したけれど、熱原法難で処刑された法華衆を悼む様子が宗祖にないのはなぜなんだろうと思っていました。(下人だから人間扱いされなかったとも考えられるけど。。)
そこで小宇宙(己心)と大宇宙(肉身)と考えたわけですが、もうちょっと考えてみようかと。
宗祖は霊山浄土に行くつもりだったというのは異論がないと思います。そこへ行くのは肉身ではなく己心ですよね。己心は永遠。肉身は一瞬の夢。そういうわけで己心を中心に法門は考える必要があるということです。佐前佐後ということも聞きますが。人本尊や法本尊といわれても何のことやら。。
開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄・佐土の国にいたりて」とありますが、なんでこんなことを書いているのか。スーパー御本仏なら、仏力法力で頸はねられなかったと書くはずでしょう。(寺報第499号は「子丑の刻」のタイトルで、続くとなっていますが、いつものごとく続きはまだ。。)
やはり、こういうことを書いているからには、大宇宙よりも小宇宙。仏法とは究極、小宇宙=己心(魂魄 )なんだと主張されているようにみえます。
しかしまあ、己心とは何でしょう。個人個人の心?犬や猫にも己心はあるのか。あるんでしょうけど。。霊山浄土に犬猫はいるのか。いないとおかしなことになるような気もする。
結論が出ないから、変なことを書いて煙に巻いてるわけだけれど。。続く。(本当かな?)