富士日興上人詳伝(上)
2020年10月31日
堀日亨上人の著作。第二祖日興上人は大石寺の開基です。身延にいましたが地頭と不仲になり退出して富士へ行きます。日蓮宗字典には「元来日興は資性謹直、その信仰態度は純信、厳粛で、門下の教導も仏祖に対し至心恭敬の給仕を勧められたようである。」とあります。
詳伝(上)の246ページには同上人の原殿書の追って書きを次のように紹介しています。
「終わりの「追て申」は興上の謹厳をしのぶ史料として貴重なものである。一巻一紙も苟(いやしく)もせず、公私を峻別(しゅんべつ)せられた尊さを思うべきである。これを後世に、幾十駄の荷物を延山より富士に運べりなんどいえるのものは、思わざるものはなはだしきものである。」
では、原殿書の追って書きには何と書かれているのか。「追て申し候、涅槃経第三第九の二巻・御所にて談じて候しを愚書に取り具して持ち来りて候、聖人の御経にて渡らせ給ひ候間慥(たしか)に送り進らせ候、」
間違えて(身延から)涅槃経の第三巻と第九巻を持ってきてしまったので送り返すということでしょう。そして日亨上人は、たくさんの荷物を身延から富士へ持ち出したなどという者は、と批判しているわけです。
(ちなみに「堀日亨上人校閲 日蓮大聖人とその教え 大日蓮編集室発行 の133ページには、「と悲壮の決意を固められた日興上人は、大聖人出世の本懐である、本門戒壇の大御本尊を始め御眞影、御眞骨其他法嗣として付囑せられた宗寶を奉じて、法弟檀越を従え、涙と共に身延山を下られて、」とあります。どっちやねん!)
さて、物体としての戒壇の大御本尊は持ち出したのか持ち出さなかったのか。それとも持ち出すことは不可能だったのか。さあ、どれ。