塔婆
塔婆供養は、川澄勲氏の著作では批判の対象になっている。法門問答
初代講頭は、中興入道御消息「北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大海の苦をはなれ・東風きたれば西山の鳥鹿・其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生れん」を引かれ、塔婆の功徳について語っていた記憶がある。
心情的には川澄勲氏の説に賛成なんだけど、まあ、自分でも塔婆供養は御僧侶にお願いしているし、長年どっちつかずでいたところ。
今般、たより第81号(2021年9月)の回向(えこう)について書かれた文章を読んで、今後はこれで行こうと決めたのでご報告申し上げます。(何の報告やら。。)
(以下は、文章をもとに自分でまとめてる)
まず、回向。
回向とは、亡くなった人の冥福を祈ることではない。回向とは、回る、向かう。自分の修行によって得た徳を、一切衆生に振り向け皆ともに成道しようと祈ること。
そして、塔婆。
塔婆の裏には『乃至法界平等利益』とある。亡くなった方だけでなく、一切衆生の幸せを祈っている。
というわけで、塔婆とは、自分がどれだけ徳を積めたのかを確認するもので、ああこれではいけないなあと赤面するのが塔婆供養ということになりました。
ついでに、「法華ごころ」P55には、「自然と自分は一体である。であれば自分の幸せと法界のそれとは、別である筈はない。」とあり、P155には、「法華経は環境すなわち法界に目を向けずして成道はあり得ないと説くのである。」とあります。
塔婆供養とは、誰かのためだけに祈るのではなくて、自分を含めてあらゆるものを対象にして、これではいけないと反省し精進を期し、全部の幸せを祈るものではなかろうか。
宗祖は中興入道御消息を「此れより後後の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ」と結ばれています。南無妙法蓮華経とは、すべての存在が存在するというだけで尊ばれる世界を意味する、すべての存在は仏のごとく尊い、と御僧侶から教わっているのでこれでいいのかな。
中には、御書や塔婆を自分やお寺のために利用する人もいますが。。リンク先は、顔写真と名前まで出して。見てるこちらが赤面します。合掌。卒塔婆にも・・・
法蓮抄で検索してたらここにも。法蓮抄