原因と結果
2021年02月14日
条件が整っていないときに、ああだこうだとやっても無駄。それは欲望によって、突き動かされているだけ。
なりたい自分になるためには、時を待つ。なりたい自分になれるように道理に合った行動をとる。
何があっても、なるようにしかならない。すべて大聖人のお計らいと思えるかどうか。
南無妙法蓮華経と唱えて、何があっても怒るでもなく、ハハハと笑っていられるか。損をしても、怪我をしても、車をぶつけても(日蓮大聖人の)御計らいなんだと。何の屈託もなく生きていけるか。
不平を言っているときは執着しているからまともな手は打てない。ケロッとしていれば物事を正しく見ることができる。
現在と別個の生活を求めて、祈念しても現証は出ない。自分自体が逃れよう逃れようとしているだけ。そうではない。信心をしているというのであれば現実離脱をしちゃいかん。仏弟子であるのなら忍難の実践たる菩薩行をせよ。それが信心。
清らな信心とは、(拝んで)どんなになるこんなになるじゃない。拝んだから変わったのではない。拝むことによって自分の一念心が変わっていく。南無妙法蓮華経と題目を上げて、現実の世界で忍難の修行をしている。苦しいことはいくらでもある。その都度、ハアハア吐息をつくのではなく、それが自分の通るべき道だったのかなと思えば済むこと。宿業だと思ってもいい。自分が清らな気持ちでいられるようにやっていく。それが修行。
いくら南無妙法蓮華経と題目を上げても、自分自体が己を変えていこうと必死になっていないと意味がない。
南無妙法蓮華経と仏の知恵をいただきながら生きていくこと。それで道を開く。悪口雑言、口舌が道を閉ざす。
(初代講頭2002年2月21日座談会)
(ネタが出てこないので、このサイトでも座談会頼みになったなあ。。)