南無について

2021年08月16日

先に南無妙法蓮華経は曖昧と書きましたが、そもそも南無とは何ぞや。南無とは帰命。そこで思考がストップしてしまっている。御書はどうか。

「南無御書」には「これを法華経にまいらせんとをもし、三世の仏は皆凡夫にてをはせし時・命を法華経にまいらせて仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す・南無と申すは月氏の語・此の土にては帰命と申すなり、帰命と申すは天台の釈に云く「命を以て自ら帰す」等云云、命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う」

「白米一俵御書」 には「南無と申すは・いかなる事ぞと申すに・南無と申すは天竺のことばにて候、漢土・日本には帰命と申す帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり」

「南無」とは仏(法華経)に我が命を供養すること。となるのかな。

では、仏に命を供養するとは?何を意味するのか。

仏と一体になる。同一化するということでしょう。一味。成仏?成仏するとは、自分と仏の区別がなくなること?

「白米一俵御書」では、凡夫は志ざしという文字を知って仏になる、志ざしとは何かと考えると観心の法門、観心の法門とはたった一つ着ているものを法華経に供養すること。

そして「聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう 」をどう解釈するか。。

「まことの・みちは世間の事法にて候」「法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」ということから、供養する相手によって事と理の違いはあっても、聖人(法華経・仏)を供養するのも凡夫を供養するのも同じことなんですよということかな。というのが結論です。

法華ごころ(P31)にも「志ざしとはむつかしいことではない。寒い日、一つしかない半纏(はんてん)をそっと母の肩にかけるおもいやりの心。ひもじい時、一つしかないおにぎりをわが子に与える暖かい心。それが「志ざし」である。」とあります。

初代講頭の指導には「寛尊が注意されていることは、折伏は己に向けること。自分の弱々しい命に対して、それを突っ込んでいく。そして妙法蓮華経の功徳、仏道修行の功徳、これをもっていく。世間でいうところの善根。世間では善根、善という。仏法においては修行していったところの功徳。これを自分の一念心にズーっと培(つち)こうていく。 」

南無とは、こういうことを心得て信心していくことなのかなと。

さて、南無妙法蓮華経の五字。という表現が御書にあります。大事なのは妙法蓮華経(仏)なんでしょうけど。今日はここまで。

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白米一俵御書

実に我田引水的な解説がなされているというか。。「法供養」や「財供養」があるところがニクいですね。信者から時間と金品を奪って、奴隷の地位に住せしめることが目的の文章です。信心らしく書かれているところに苦心の跡がうかがえますね。ご一読を。『事理供養御書』とも呼ばれることや最後が欠損していることを知りました。

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「聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう 」の意味。私のとは違ってますね。。

白米一俵御書(事理供養御書)第四章 観心の法門と凡夫の成仏

供養

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関連はないけど面白かったので。

『法句譬喩経』塵垢品第二十六

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