出世の本懐
このところ、テレビや本で哲学に触れることが多いけど。
原典は読んだことがありません。。
出口治明さんの「哲学と宗教全史」を読むと、やはりというか哲学は宗教の中で発展した面がある。
キリスト教やイスラム教ね。というか、宗教には教義があるんだから全ての宗教には哲学があるんだろう。
同著にも「世界のすべてを考える学問」とか「哲学と宗教は不即不離の関係」とあります。
それに哲学といっても、小難しいことを言ってるわけではないのだなと思った。
哲学が難しい、理解できないのは。言語が違う、住んでいる世界が違う、時代が違う、からでは。
しかし、キリスト教などでいう全知全能の神や造物主が、いるわけないよなあという立場では、キリスト教やイスラム教の哲学はピンとこない。
前提が違うからねえ。
「神は死んだ」とニーチェは説いたらしいけど、自分的には「神は生まれなかった」、「神はいてもいい、いなくてもいい」という哲学が必要ではないかと思う。
こんなことを考えていたら、思い出したのが崇峻天皇御書の「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」。
仏が人の振舞とは。。
神も仏もいない、というふうに捉えることもできるなあと思った。
「人を払うと書いて仏」と御僧侶から習った。仏は、釈尊の涅槃図のように何もしない。無作の三身。つくらず、はたらかず、もちいず。だったか。いや、知らんけど。
仏の教えを広めるのは菩薩。
日蓮は菩薩道を歩まれた僧侶。
やっぱり、現実世界には神も仏もいなくていいんじゃないの。
現実世界では、神仏よりも人が大事だ。
という結論に至ったのが現時点での自分の哲学。
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哲学とは現実世界と空想世界を相手にし、宗教とは現実世界と信仰世界を相手にするもの。
現実世界と信仰世界がごちゃまぜになった信心は御免こうむりたいものです。