兄弟鈔
謗法という言葉が気になり、宗祖はどういう使われ方をしていたのかリンク先のリンク先で検索したんですが。。
あまり謗法謗法と言ってなかったんじゃないかなという予想に反して、謗法のオンパレードでした。
基本的に法華経を信じないことが謗法、法華経を信じない者が謗法者ということです。
でも、今のように謗法だ謗法だと人を責めるのに使うのは違うんじゃないのと思います。
で、真蹟、身延期で検索した中で気になったのが「兄弟鈔」。
「文の心は、我等過去に正法を行じける者にあだをなしてありけるが、今かえりて信受すれば過去に人を障げつる罪にて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳強盛なれば、未来の大苦をまねきこして小苦に値うなり。この経文に過去の誹謗によりてようよう(様々)の果報をうくるなかに、或は貧家に生まれ、或は邪見の家に生まれ、或は王難に値う等云云。この中に邪見の家と申すは誹謗正法の父母の家なり。王難等と申すは悪王に生まれあうなり。この二つの大難は各々の身に当たっておぼえつべし。過去の謗法の罪の滅せんとて邪見の父母にせめられさせ給う。又法華経の行者をあだむ国主にあえり。経文明々たり、経文赫々たり。我が身は過去に謗法の者なりける事疑い給うことなかれ。此れを疑って現世の軽苦忍び難くて、慈父のせめに随って存の外に法華経をすつるゆよしあるならば、我が身地獄に堕つるのみならず、悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちてともにかなしまん事疑いなかるべし。大道心と申すはこれなり」。
謗法は自省のために使われています。
「一生が間賢なりし人も一言に身をほろぼすにや。各々も御心の内はしらず候えば、おぼつかなしおぼつかなし」。
いろいろと例え話も説かれていますが、ちょっとした油断で誤ってしまうと警告されています。
あなたのことです。
自分自身のことです。
一言に身をほろぼすにや。
おぼつかなしおぼつかなし。
人のことを責めてる場合じゃないでしょう。