信心する人と信心しない人の違い
信心とは道徳だと思っている人。精神修養だと思っている人。なにかにお願いするものだと思っている人。願いを叶えるためにするもの。そう考えている人が多いと思う。
それでは信心する意味がない。この世の真実を知ることが信心だと思う。
御本尊様を信じて南無妙法蓮華経と唱える。これは仏の智慧をいただくということ。なぜ南無妙法蓮華経を信じることで仏の智慧をいただくことができるのか。。
南無妙法蓮華経を信じるとは、「すべての存在は仏のごとく尊い」と信じて生きていくこと。これは御僧侶の言葉。
この世は存在の世界。そして一つの世界のはずだが。。
現実的には「あなた」と「わたし」、自分と自分以外の環境という別け隔てをして、みんなが生きていると思う。
でも自分が生まれる前の世界、死んだあとの世界を考えると世界は一つということが理解できると思う。
生きていく上でも、自分の敵だと思っていた人が見方を変えることによって、自分を鍛えてくれる、助けてくれる人になる。これは自分が変わったということ。相手は何一つ変わっていない。自分の意識・心が変わることによって、自分の相手を見る目つきが変わる、顔つきが変わる、相が変わる。口から出る言葉も柔らかいものになる。この縁に触れて、今度は相手が変わる。
実は相手(他人)だと思っていたものが、鏡に写った自分ではないのかと思えてくる。自分が笑えば、鏡の中の自分も笑う。世界が一つとはそういうこと。
人は何者かになるべく努力すると思うが、努力をしても叶うこともあれば叶わないことある。必ずしも叶うことが幸せとは限らない。
信心して仏の智慧をいただきながら生活をしている者は、行き詰まりがない。末広がり。自分の知恵で考えて行動する者は、煩悩によって考え行動しているから迷う。うまくいっているようでまた迷う。
信心するとは、仏の智慧をいただきながら生活すること。これが信心していない人との違い。