信じる力
いわゆる信力かな。
リンク先の初代講頭の伝言では、「過去の業報によって自分が痛めつけられる。子供が子供がと言ってもそれは自分の業報なの。人によって(業報の)姿を見せられる 」とあります。
子供のケガや病気のたびに業報とか宿業とか思い知らされます。
一方で、初代講頭は、こんなすごい信心をしてるんだから、業が深いはずがないじゃないかとも仰ってます。
本当に子どもの存在によって、信心が鍛えられるというか、真面目に信心をして乗り越えていかなければと思ってしまう。
骨折のことは以前に書いたけど、今度は潰瘍性大腸炎。
休む間もない。
この病気は、治らないというけれど、やっと落ち着いてきた。
ケガのときは手術だったから、スパッと結果が出たような感じだったけど、今回はどうにももどかしい。
その間どうしてたか。
リンク先のBlogの「創価学会や顕正会は逃げることを教えている。拝んでみなさい、功徳がでて、こうなるから。これは逃げることを教えている。別に浄土があると思っている。いいところがあると思っている。大聖人はそうじゃない。ここが霊山浄土ですよ。逃げる場所じゃない。今置かれている立場が幸せな境涯なんだ。そういうふうに自分が見ていかなければならない。逃げる場所はどこにもないの。今置かれている立場そのものが幸せな境涯なの。それを幸せと取ることができないのは自分の誤り」。
これを思ってましたね。
「本当に信じられたときは理屈はいらないんだ。一切が妙法蓮華経と信じ、御本尊様に南無していくんだよ」ということかな。
先に「もどかしい」と書いたけど。。
これも本当はよろしくないかもね。
不信が含まれてるかもしれない。
「やる限りにおいては楽しくやったらいい。にこやかに。そして業報を乗り切ればいい」
なかなか顔が引きつることも多いですが。
スパッと結果を出す信心でないと。
そんなのただの偶然とか、信心してなくてもそうなってたんでしょうというのは不可です。
信心してない人に妙法蓮華経のすごさは分からないから。
体験してない人には分からないから。
信心することによって自分の感じ方が変わるだけかもしれない。
しかし、心持ちが変わる。
そして、結果が出る。
今回も乗り越えてみせるぞと。
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四条金吾殿御返事(此経難持の事)によると、信力ではなく念力が大事っぽいけどね。