人は死ぬ

2021年02月06日

このところ、また、熱原の法華講衆が首を切られたことが気になって。リンク先では、腑に落ちたなんて書いていましたが。。

殺されるのがいいとは思いませんが。タイトルのとおり、人は死ぬ。死ぬのは当たり前。そして、生きてる間も死に臨んでも「南無妙法蓮華経」しかないというのは、基本的な信仰姿勢です。

連行された20人のうち3人が首を切られた。3人は無念だったのか。後悔したのか。わからない。17人はホッとしたのか。それもわからない。ただ、日蓮大聖人は「彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云」と処理されている。

御利益信仰だと、信心しているのにどうしてこんなことになるのかと疑問を持ちそうです。

自分自身が首を切られることに納得できるでしょうか。喜んで南無妙法蓮華経と法華経に命をささげることができるのか。

ここがやはり大きな分かれ目だと思います。

仏法は日常生活だと思っていますが、死は非日常です。しかし、どちらも南無妙法蓮華経でなければ乗り越えられない。南無妙法蓮華経でなければダメなんだと覚悟を決めて、悠々と乗り切っていきたい。

できるかどうかはホントに信心の厚薄によるのでしょう。

死は免れないもの。いつやってくるかわからない。その時まで、息のあらん限りは、南無妙法蓮華経でいく。この決意もなく、フラフラといいことがあったと喜び、うまくいかなかったと嘆いているようでは、迷ったままご臨終でしょう。

自戒。自利利他。

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