上野尼御前御返事
2024年03月22日
謗法という言葉が気になり、宗祖はどういう使われ方をしていたのかリンク先のリンク先で検索したんですが。。
あまり謗法謗法と言ってなかったんじゃないかなという予想に反して、謗法のオンパレードでした。
基本的に法華経を信じないことが謗法、法華経を信じない者が謗法者ということです。
でも、今のように謗法だ謗法だと人を責めるのに使うのは違うんじゃないのと思います。
で、真蹟、身延期で検索した中で気になったのが「上野尼御前御返事」。
謗法とは関係ないけど。
「妙法蓮華経と申すは蓮に譬へられて候。天上には摩訶曼陀羅華、人間には桜の花、此れ等はめでたき花なれども、此れ等の花をば法華経の譬へには仏取り給ふことなし。一切の花の中に取り分けて此の花を法華経に譬へさせ給ふ事は其の故候なり。或は前華後菓と申して花は前菓は後なり。或は前菓後華と申して菓は前花は後なり。或は一華多菓、或は多華一菓、或は無華有菓と品々に候へども、蓮華と申す華は菓と花と同時也。一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説く。かゝる故に不定也。法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏也。譬へば天月の東の端に出づれば、其の時即ち水に影の浮かぶが如く、音とひびきとの同時なるが如し。故に経に云く_若有聞法者 無一不成仏〔若し法を聞くことあらん者は 一りとして成仏せずということなけん〕云云。文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文也」。
蓮華と申す華は菓と花と同時也。ということから、南無妙法蓮華経と唱えると功徳がありますよというのはおかしいのでは。
南無妙法蓮華経と唱えること自体が功徳です。