なぜ信心するのか
過去のことを振り返っていると、なぜ信心するのか、なぜ日蓮大聖人なのか、なぜ南無妙法蓮華経と唱えるのか、勤行するのか、などなど。
信心してない人に信心する理由をきちんと説明できるのだろうかと、不安になってきた。
信心する必要はどこにあるのかということを再確認してみたいなあ、と。
まず人としての宗祖日蓮大聖人とは。
聖人知三世事の「日蓮は不軽の跡を紹継す」という認識です。不軽菩薩は一切衆生の仏性に手を合わせた。すべての人を尊んで生きていこうということです。
近藤丸氏の「ヤンキーと住職」(出版されたもの、WEB版にはなし)には、仏陀(釈尊・お釈迦様)はどんな人も敬った、とあります。不軽菩薩は法華経に説かれる釈尊の過去世の姿。この生き方が本当の人の生き方じゃないか。みんなが幸せになるにはこれしかない。
この生き方に共感する人が信心することになります。そして、私たちに縁ある人は宗祖日蓮大聖人です。だから釈尊に縁する人は釈尊を本尊にするのもありかなあとは思います。不軽菩薩に縁のある人は不軽菩薩を本尊にする。私たちにとってはそれを教えてくださったのが宗祖日蓮大聖人なので日蓮大聖人が本尊です。
そして、なぜ南無妙法蓮華経と唱えるのか、勤行するのかというと、御僧侶によると「現在私達が曼陀羅を御安置する意は法華経の信心修業が単なる観念的な思索ではなく、行住坐臥に法華経の仏とともにあることを事相に表徴したもので、大聖人の御内証を表わした一幅の曼陀羅を生身の日蓮大聖人と拝して、如在の礼をとり、身をもってお仕えしていくことが、おのずから仏道修行となるのであります。 」ということ。
南無妙法蓮華経と唱える、勤行するのは、どんな人も敬うということを忘れないため、仏道修行です。
すべての人を尊んで生きていこうとするところに成仏の姿を見る。幸せを見る。だから信心しているのです。ということかな。