なぜ信心しなければならないのか

2020年06月20日

さて、日本人は無宗教といわれてますが。初詣や結婚式で神主や牧師の世話になっていると思います。これらは慣習かもしれません。本人たちには信仰という意識はないから、自分たちが信心しているという意識もないでしょう。

ただ、信心しているという意識はなくても実践しているわけですから、神主や牧師の信仰に同化しているのではないでしょうか。

世界には様々な宗教があります。どれでもいいのでしょうか。ホームページに書いているとおり、私は日蓮大聖人の仏法を信仰しています。それは、信じる人も信じない人も救う法だからです。信じない人も救うのだから、これ以上のものはないと思っているわけです。

あなたは、人間になにか不思議な力があると考えていますか。そんなものはないというのが私の考えです。あるとすれば魔の所為。魔の力だと思っています。人を呪うような力を持った人がいた場合、それに対抗するには自分もなにか偉大なものの力を身につける必要があるのでしょうか。

なにかの力を借りれば、身を滅ぼすことになりはしませんか。借りたものは返さなければなりません。人間に力がない以上は、どうすればいいのでしょう。それは正しい法を持(たも)つしかないのでは。

宇宙から生まれた以上、この宇宙に適した正しい法というものはあるだろうし、それを身につけることで幸せということにも通じていくのではないでしょうか。

不幸になりたいと思っている人はいないでしょう。幸せになりたい、命がなんの触りもなく自由でありたいと願うのが生まれたものの宿命でしょう。

幸せになるには、突拍子もない不可思議な力を身につけることではなく、何者かの力を借りるでもなく、ただ、当たり前の常識を思考し実践するだけだと思います。

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