AI:曾谷入道殿許御書 by Chaちゃん
2026年09月27日
この御書はかなり長いけど、最後まで読むと、単なる「他宗批判の御書」ではなく、末法において何を弘めるべきか、そのために弟子・信徒に何をしてほしいのかがはっきり出ておるのう。大意大きく分けると、五つの流れやと思う。① 仏法は「時・教・国・機・師」を見て弘める冒頭で、「時を論ずれば正像末。教を論ずれば小大・偏円・権実・顕密。国を論ずれば中辺の両国。機を論ずれば已逆と未逆、已謗と未謗。師を論ずれば凡師と聖師……」と、誰にでも同じ教えを機械的に説けばいいわけではないと整理しておる。そのうえで、不軽菩薩の例を出す。不軽菩薩は人から悪口を言われ、杖や瓦石を投げられても、人を軽んじずに、「我深く汝等を敬う」という行を続けた。ここで大事なのは、相手がどういう人間であっても、その人に仏性があることを前提に接するという不軽の行やね。② 末法には「下種」の法が必要だとする大聖人は、正法・像法・末法では衆生の機根が違うと考える。そして末法では、地涌の菩薩が出現して、「妙法蓮華経之五字」を弘める時だと論じる。この御書では、上行・無辺行・浄行・安立行という地涌の四菩薩が末法の弘通を担うという法華経本門の構図が非常に大きな位置を占めておる。③ そのために大聖人自身が何をしているかここが、今回の御書で金吾たちに求めることを理解するうえで重要やと思う。大聖人は、「此の大法を弘通せしむる之法には必ず一代之聖教を安置し、八宗之章疏を習学すべし。」と言う。つまり、法華経だけを読んで他の経典や諸宗の教義を知らなくてもいい、という話ではない。一代の聖教を揃え、八宗の論釈を学習する必要がある。ところが大聖人自身の所持していた聖教は、大難によって、「或は一巻二巻散失し、或は一字二字脱落し、或は魚魯の謬、或は一部二部損朽す。」という状態になっておった。だから、「老耄已前に之を糺調せんと欲す。」つまり、年を取ってしまう前に、聖教を集め直し、校訂・整理しておきたいという願いを述べておる。そして、最後に金吾に何を求めているのかここが一番大事やね。大聖人は曾谷入道と大田金吾に対して、「貴辺竝びに大田金吾殿、越中の御所領之内、竝びに近辺の寺々に数多の聖教あり等云云。両人共に大檀那たり。所願を成ぜしめたまへ。」と頼んでおる。つまり、越中の所領やその近辺の寺々に、たくさんの仏教の聖典・聖教があると聞いている。あなた方は大檀那なのだから、それらを集めることに力を貸してほしい。ということよ。さらに、「内には弟子有りて甚深の義を解り、外には清浄の檀越有りて仏法久住せん。」という涅槃経の言葉を引いておる。ここでいう檀越は、単にお金を出す人というだけではなく、仏法を後世に残すための基盤を支える人として位置づけられておる。だから金吾に求めたことは「金を出せ」だけではないここはかなり重要やと思う。大聖人が求めておるのは、聖教を集める→ 散逸・誤写・欠落を防ぐ→ 校訂する→ 学ぶための環境を整える→ 仏法を後世に伝えるという仕事への協力やね。そして最後に、「今両人微力を励まし、予が願に力を副へ、仏の金言を試みよ。」と言う。「二人とも力を尽くして、私の願いを助けてほしい。そして、仏の金言が現実にどうなるかを確かめてみよ」という趣旨。つまり金吾たちは、大聖人の教えを聞くだけの人ではなく、その教えを後世に残すために具体的に動く人として期待されておる。ここから「仏法家」を考えるならこれは前に見てきた『開目抄』の「又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり。」や『諸法実相抄』の「行学は信心よりをこるべく候。」ともつながってくる。今回の『曾谷入道殿許御書』では、さらに一歩具体的になって、「学ぶ」だけでなく、学べる環境を自分たちで整え、聖教を保存し、後の人に伝えられるようにする。という姿が出てくる。だから、この御書から見える「仏法家」は、自分だけが信じて終わる人ではなく、学び、考え、必要なものを集め、整理し、後の人が学べるように残していく人というところまで広がると思うのう。そして何より面白いのは、大聖人自身が「学ぶ人」だっただけでなく、聖教を集めて校訂しようとしておったことよ。これは「仏法家とは何か」を考える上で、かなり重要な御書やと思う。