浄土真宗

2023年03月05日

ヤンキーと住職。

本を買って講員に送りました。

前に書いたとおり、講で事件があり、気分転換になるかと思って。

最近面白かったものが何かなというと、ヤンキーと住職だったというわけで。

たまたま仏教関係の本だったという話。

顕正会時代なら謗法だ謗法だと大騒ぎでしょうね。。

だけど浄土真宗の方が書いた本なので、信仰がおかしくなっては困ると思い、まず大丈夫そうな人に送った。

結局回し読みされることなかったようで。

その人は楽しんでくれたようですが、やはり他の人に回すのは躊躇したみたい。

さて、浄土真宗といえば、大石寺法門P27、開目抄の項に「そして法然の多念義に対して、在世中に一念義も盛んになり、その中で親鸞は一念義をもって浄土真宗を立てた。これには多分に一乗要決に依っている処があるように思われるが、浄土を立てるために、己心の弥陀、唯心の浄土は立てたが、戒定恵の三学を取り上げることが出来なかった。そのために滅後末法に今一歩という処が残された。それは依経(えきょう)の厳しさである。そのために戒定恵に収まるべき処が西方浄土に決まったのである。もし親鸞に戒定恵の三学があれば、現在においても己心の弥陀、唯心の浄土が安定していたのではないかと思われる。そして続いて出た日蓮は、開目抄に至って戒定恵をもって現世に己心の法門を開拓し、衆生に密着することが出来た。三回目に漸(ようや)くその道が開けたのである。これが伝教に密着している三学と二乗作仏(にじょうさぶつ)である。いくら末法に入って二乗作仏があっても、戒定恵の三学がなければ衆生の成道にはつながらない。そこに仏法の世界が必要なのである。学生式問答(がくしょうしきもんどう)は末法の用意として説かれたものであった。その上で二乗作仏の論争が行われたのである。一念義が出たのは恐らくは悲痛な民衆の欲求であった故と思う。そして多念義も一念義も日蓮の戒定恵の三学に収まったのであろう。これで一応の落ち付きを取り戻したのではなかろうか」

浄土真宗の本尊は阿弥陀仏でしょう。

阿弥陀仏ということで、死後、極楽世界に往生する、から逃れられなかったということ。

現世で完結することができなかった。

宗祖日蓮大聖人は浄土を説くことはあっても、晩年の御書、十字御書の「そもそも地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたずね候えば、あるいは地の下と申す経もあり、あるいは西方等と申す経も候。しかれども、委細にたずね候えば、我らが五尺の身の内に候とみえて候」が本筋でしょう。

つまりは、仏法は生活法ということです。

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