己心の法門

2024年02月19日

観心本尊抄を拝読すると、我らが己心に本尊が存すると宗祖が主張されていることがわかります。

立正安国論を拝読するときは客の言葉は用いてはならないと御僧侶からは注意されていますが、観心本尊抄も、問うて曰わく、答えて曰わくとなっています。

しかし、立正安国論と違って客が問うているわけではなく自問自答なので問うて、の部分に書かれていることも採用していいのかなと思います。

そうすると、一人ひとりの己心に本尊が存するということになる。

最近の大石寺の主張はよく知りませんが、川澄勲氏を攻撃していたころの主張と変わっていないのでしょうか。

今も変わっていないものとして論を進めますが。

この我らが己心を宗祖の己心だと大石寺は主張しているわけです。

観心本尊抄を拝読すると宗祖の己心とはならないので、検証に当たっては観心本尊抄は用いられていません。

 己心の法門について

三大秘法抄など真蹟のない御書を用いるのではなく、素直に観心本尊抄を用いればいいのにと思います。

肝心なことには触れないで、自分が抱いている結論に合致するように論を進めるのはいただけない。

だいたい、その人が間違っているとすれば教導するのが僧侶でしょう。

その人が地獄へ落ちたと思うのであれば救っていくのが僧侶でしょう。 

文章からは僧侶の役割を放棄しているように思います。

つまり法師の皮を着た、ということです。

松野殿御返事(松野第二書)には、謗法の者を責めずして、とありますが謗法者を罵れという意味ではないでしょう。

「受がたき人身を得て適出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責ずして徒らに遊戯雑談のみして、明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生也。法師の名を借て世を渡り、身を養ふといへども、法師となる義は一もなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人也。恥べし、恐べし」。

これを自分なりに解釈すると、「人でいる間に出家を志したのに、仏法とは何かを考えようともしないし、間違っていると思う人を救おうともしないで、無為に毎日を送る僧侶はナマケモノだ。御尊師・お上人・猊下と呼ばれていい暮らしをしているが在家と何が違うのか。僧侶という名をかる盗っ人だろう。これが日蓮の弟子だというのであれば、恥ずかしく、心配なことだ」となります。

 名をかるばかり

ただし、これは出家に対しての注文。

在家はみんなと仲良く遊戯雑談すべきだと思う。 

出家も世間を渡るときは当然仲良くすべきです。

八百屋へ買い物に行って神棚があるからとイチャモンをつけてはいけません。  

それから、日達上人の仰せは、もちろん宗教としての日蓮正宗の立場での発言でしょう。

また、読んだ限りでは、己心とはなっていませんね。

自分の中、我々の中、となっています。

日達上人は、肉体の中に本尊があるわけではないんだぞと仰ってるわけでしょう。

己心とは、さて、肉体の中に存在するのでしょうか。

熱原の法華三人衆の己心にある本尊が戒壇の大御本尊だというのなら、肉体の中の己心に限定すると、戒壇の大御本尊は熱原の三人衆しか拝めないことになってしまいます。

己心を「思い」や「願い」に読み替えると、誰でも戒壇の大御本尊を拝することができます。

熱原の三人衆は、一切衆生皆成仏道。乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光の南無妙法蓮華経を最後平左衛門尉頼綱に対して手を合わせて唱え、平左衛門を救ったというのが日蓮正宗の信仰でしょう。

こうでなければ戒壇の大御本尊ではないし、戒壇の大御本尊を信仰する意味がないと思います。

平左衛門は法華の現罰を受けて地獄へ落ちたのでしょうか。

法華の現罰は受けたかもしれないけど地獄へは落ちていないでしょう。

地獄に落ちたのならば日蓮正宗の信仰は成り立たないと思います。 

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