冬は必ず春となる
妙一尼御前御消息
「又いゐし事むなしからずして・大蒙古国もよせて国土もあやをしげになりて候へばいかに悦び給はん、これは凡夫の心なり、法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候」
有名な御文です。全文を拝読することをお勧めしますが。。
初代講頭の座談会を聞きなおしていると、「一念心を定めて自分を変えていこうとする。逃げるんじゃない真正面からぶつかっていこうとするのが信心なんだ」とあちこちに出てくる。
聞いててふと思い出したのが、先の御文です。
信心してたら今は冬のようでもいつか春がやってくるんだ、と勘違いしていました。
大聖人はそんなこと書いてません。これは読み違えていた。失敗した。信心はそんなもんじゃなかったと思いました。
大聖人は、法華経を信ずる人=冬だと。それが、法華経を信ずる人=春になりますよと。
信心してたら春が来るように幸せになりますよ、なんて能天気なことを仰っているんではなくて、信心している者がいつまでも冬のままでどうする。早く春になりなさいと励ましておられたんだなと。
「冬は必ず春となる」は、自分自身のことだと、一念心を定めて自分を変えていこうとする。逃げるんじゃない真正面からぶつかっていくところに冬が春になるのでしょう。そのときにはすっかり変わってしまった自分がいるはずです。
なお、信心は円満じゃなきゃダメですよ、仲良くするのが信心ですよ、というのも春にお似合いかと。
誹謗なきを仏の教えとなす、争いなきを仏の教えとなす、怨念なきを仏の教えとなす。(←これもいつかの初代講頭の教え。経文を引かれたのだっけ)
あわせて、白米一俵御書の「爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」もご参考に。
ネットでは、自分と同じ過ちを犯している解説が多いように思います。冬や春は環境ではなく、自分自身のことなんだ。自分が春にならなければならないんだと一念心を定めて信心するところに、一切衆生皆成仏道の世界が開かれるのではないでしょうか。