不軽菩薩
リンク先のBlogで2004年10月の寺報を読み返しました。
そこには「宗祖はこの不軽菩薩の一切衆生礼拝の仏道修行を唱題行に置き換えられました」とあります。
唱題は宗祖曼荼羅に向かって行いますよね。
自分は曼荼羅に何が書かれているかはあまり知らなかったんですが、調べた限りでは不軽菩薩は書かれていません。
つまり、曼荼羅に向かって手を合わせ南無妙法蓮華経と唱える者が不軽菩薩だということでしょう。
日蓮大聖人の信仰をする者は、自分は不軽菩薩なのかを確認することが求められている。
というか、不軽菩薩以外の者が曼荼羅に向かっても意味はない。
それは偽の信仰だということです。
曼荼羅と不軽菩薩で完成です。
迷いの凡夫ではあるけれども、御本尊に向かい題目をあげるときは不軽菩薩でありたいものです。
あなたは不軽菩薩ですか。
追記
不軽菩薩は誰彼構わず礼拝したけど、誰からも礼拝されなかった。
宗祖曼荼羅は、不軽菩薩を礼拝する日蓮ではなかろうか。
初めて不軽菩薩を礼拝した人としての喜びと自負が、曼荼羅の讃文 「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曾有之大曼荼羅也」となったのでは。
私たちが御本尊に向かう姿は、日蓮と不軽菩薩が礼拝しあっている姿であると同時に師日蓮と弟子という姿でもあります。(日蓮日興、日興日目であるならば、日目私達かもしれません)。
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己心の法門、師弟子の法門、互為主伴も、スタートは師不軽菩薩弟子日蓮だと思います。崇峻天皇御書の「不軽菩薩の人を敬いしは、いかなることぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」。不軽菩薩は人です。仏ではありません。人である不軽菩薩を師匠に定めて日蓮は弟子になりました。これは己心の中の出来事です。観心本尊抄の「仏、既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず」や、観心本尊抄副状の「三人四人座を竝べて之を読む勿れ」、弁殿御消息の「互為子弟歟〔互いに子弟と為らん歟〕」も理解しやすくなりました。