日本の仏法

法華経において不軽菩薩は一切衆生を礼拝した。しかし、不軽菩薩を礼拝した者はいなかった。不軽菩薩と礼拝し合う者はいなかった。この不軽菩薩と初めて礼拝し合ったのが日蓮。諌暁八幡抄の月氏の仏法とは不軽菩薩であり一方通行、片思い。日本の仏法とはこの不軽菩薩と礼拝し合う日蓮を代表とする一切衆生であり、礼拝し合う姿こそ日本の仏法。信頼の世界。日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。

日蓮大聖人の信仰をする者が御本尊に向かうときは、本尊にお願いする、祈る、本尊エライじゃなくて、お互いが相手を尊重して礼拝し合う信仰だと心得るのが大切だと思います。これは日常生活においてもです。人の振る舞いですから。

顕正会を24歳の時に離れて御僧侶や初代講頭のお世話になりながら30年以上考えてきました。特に法門のことを教わったり考えるのは楽しい。川澄勲氏の著作のタイトルが「大石寺法門」と「阡陌陟記」というのもむべなるかな。「日本の仏法」と「宗祖曼荼羅」に考えが及んで何かしら感動しているわけですが、この感動をそのまま人に譲ることはできません。皆さんもいろいろ考えて自分なりの感動を味わってください。組織の言いなりの信心では感動とは無縁です。

まあ、川澄勲氏からは「俺のパクリじゃないか」と言われそう。

追記 

日蓮大聖人と不軽菩薩が礼拝しあう。「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」の世界をお互いが感じる。そんなの御書のどこにあるんだ。それは己義だと言われても。(己義というのは日蓮正宗の専用語ですかね。法華取要抄にありました。でも嫌い。好きな言葉じゃない)。中島みゆきの「命の別名」という歌では命を心とよんでいますが、勝手なことをいうなと思う人はいないでしょう。同じことです。これは私が発見した宝です。信心の励みにしているわけです。自分は考える人であって研究者ではないので正しいか正しくないかは二の次。自分の信心の役に立つようにいろいろと考えるわけです。日蓮大聖人と不軽菩薩が向き合って礼拝しあう。初めて不軽菩薩の願いに応える者が現れた。初めて不軽菩薩の願いに応えることができた。どちらもうれしいことだろう。そういう気持ちになって御本尊に向かうことが余事余念なく、だと思うわけです。いや、それは余事余念だ、と言われちゃうと困っちゃう。 リンダこまっちゃう。

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