仏法とは

日蓮大聖人の仏法のことです。
われわれの日常生活のありようを教えてくださっています。
(これまで生活=暮らしと思ってきましたが、「生を活かす」という意味のほうがいいのかなあと思い直しているところ)
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仏教はいろいろあります。
でも仏法は根本の教え。法です。
南無妙法蓮華経は仏の智慧だと言われています。
何もわからなくても「南無妙法蓮華経」と人の仏性、自分の仏性を信じて生きていく。
誰かがつくった神様や仏様を信じたり、天国や極楽を夢見たりしない。
しっかり地に足をつけて日常生活を送る。
手を合わせて拝むだけが信心している姿ではありません。
日常生活そのものが信心している姿、修行です。
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法華ごころP230には、「四條金吾が同僚の讒言により、主君から蟄居ならびに所領没収という厳しい処分を受け、武士として最大の窮地に陥ったとき、日蓮大聖人は基本的な心構えから日常の立ち居振舞いにいたるまで、あたかもわが子を思う親のごとく、厳しくそして暖かなお言葉を送られている。~中略~四條金吾は大聖人の厳命をよく守り、自分の短気と懸命に戦い、そして見事に再び信頼を勝ち取り、以前より多くの所領を賜ることとなった。」とあります。困ったことがあったら御本尊に手を合わせてお題目を唱えていればどうにかなると思って、日常の生活をおろそかにしているとバチが当たります。
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以下は初代講頭の言葉です。
自分自体は地水火風空の五大じゃないか。いつ死ぬか分からない。何のために生まれてきたのか。知りたければ(法華経如来寿量品の)自我偈を読みなさい。我々がどうしたらいいかちゃんとでている。自受法楽しなさい。苦しむために生まれてきたのではない。良かったなあという人生を送らなければならない。自分自身の豊かな生命をより豊かにしていく。些細なことでも良かったなあと思える自分なのか。たったこれくらいのものかとさもしい根性なのか。
大聖人様の御書にある。100年も1000年も長生きするつもりかしらないけれど、自分自体の行き着くところを考えんと、仏を敬わん、法も信じない。ただ無知にしてあかし暮らしとるのが人間の姿だと。命終してこれから閻魔王のところへ行くときに何をもって幸せな境涯、すなわち成道、幸せな境涯のところに自分が行けるのか。何にもないじゃないか。財産ばかり追いかけて、さて自分自体が困ったときには助ける者は誰もおらんと。厳しいろう、これ。(TOKYO 2020の誰かさんのような。。)
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ついでに。
仏とは。
人のことだと思っています。
日蓮大聖人は四条金吾に「今度の命たすかり候は、ひとえに釈迦仏の貴辺の身に入り替わらせ給いて御たすけ候か。」と、人に仏をみています。
呵責謗法滅罪抄(真蹟なし)には「教主釈尊の各の御心に入り替わらせ給うかと思えば、感涙押さえ難し。」と。

仏教では仏は覚者ですが、仏法では人です。

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