日蓮大聖人とは

末法の御本仏。末法無仏の時代に出現した御本仏。なにか矛盾してますよね。
実は凡夫です。身も蓋もないけど。。釈尊を超えるスーパー御本仏ではありません。
人類史上唯一の悟った仏といえば釈尊。お釈迦様です。その釈尊が残した仏教ですら末法の時代には通用しない。
その中ですべての人が成仏するためにはどうしたら良いのかを考えられた。
難を受けても「其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり」。法華経誹謗の先業があるから「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり」と、誰かのせいではなく、すべて自分自身にあるんだと受け止めて、自分の人生を自分が責任を持って生きられた方です。
いま一番腑に落ちる「大聖人」の解説は、「妙徳院だより第71号」掲載の以下の文です。大聖人も同じように法華経の行者として一身に一切衆生の苦しみを受けられ、その事が法華経の身読になっていると悦ばれるのであります。だからこそ私達は、大聖人を「地涌の菩薩」と言うのであり、国も時間も縁も関係なく、何時までも衆生と共にいて下さるその姿こそが「御本仏」の姿であると拝するのであります。

菩薩だけど本仏でもある(仏じゃなくて本仏)。分かるかなあ。菩薩も本仏も人です。

ーーーーーーーーーー
有師化儀抄註解には、「当家の本尊の事、日蓮聖人に限り奉る可し、仍つて今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり」とあります。
悟った仏様を信仰するのではありませんよと注意されています。
ーーーーーーーーーー
観心本尊抄には、「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず。所化以て同体なり。 此れ即ち己心の三千具足、三種の世間なり。」とあります。
誰かがつくった神様や仏様は必要ない。
諌暁八幡抄には、「不軽(ふきょう)菩薩の利益此れなり。各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ。 」とあります。
不軽菩薩が道行く人々(の仏性)を礼拝したように生きる。
日蓮大聖人は、誰かに救ってもらおうとするのではなく、人の仏性を信じ自分の仏性を信じて生きることを実践した方です。
ーーーーーーーーーー
注:阡陌陟記P99には、「いう所の本仏日蓮大聖人とは、己心の滅後末法の中にのみある所の本仏である。~中略~特に日蓮の己心において、日蓮大聖人といい本仏といい、また、自受用報身如来ともいう。全て内証について号(なづ)けるところの尊称である。」とあります。
そういうわけで日蓮大聖人とは本来己心に存在するもので外に取り出すものではないということ。外に向かって日蓮大聖人を信じないと国が亡びるぞ、なんていうのは愚かなことです。仏様とは釈尊だろうと言われたら返す言葉もありません。己心に存する日蓮大聖人を信仰するのは誰の邪魔にもならないし誰にも邪魔されない。それをもって生きていく。
ーーーーーーーーーー
法華ごころP84には、以前聞いた話だが、アメリカの信者さんにある人が「当宗においては未断惑(みだんなく)の導師を本尊とするのです」と説いたところ「日蓮正宗では完全な方、絶対的な方でなく、煩悩を断じていない迷いのある方を信じるのですか」といわれたという。あながちにその人をおかしな人ということはできまい。むしろ今や宗を問わず世界的に、絶対者への信仰が当たり前になっていることをしめしているのであろう。

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう