仏法は生活法
日蓮正宗、日興門流、富士門流といわれる日蓮大聖人の信仰をしています。なぜ信じるのかといえば、そこには道理が、常識が、信頼があるから。日蓮大聖人の仏法とは、信じる人も信じない人も成道する世界を目指すものだから。過去を反省し、現在に感謝し、未来に希望を持つ。悠々と人生を送ることができます。
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仏教と仏法は何が違うのか。仏教は悟りを開いて佛に成る。人間をやめることだと思う。そして日蓮大聖人の仏法は人間界の中の仏界を目指すものだと思う。人間をやめる必要はありません。人間を諦めない。仏も諦めない。ものすごく贅沢で豊かな信仰だと思う。
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2022参議院選挙中に倒れた安倍元総理。襲撃の動機に宗教団体との関係がありました。日蓮大聖人は、本尊は自分の胸のうちにあるんだ、地獄や極楽も心のうちにあるんだと説かれました。誰かがつくった地獄を信じていると、「脱会すると地獄に落ちるぞ」とか、「最後の審判で地獄に落ちるんじゃないかなあ
」とか、「運命を変えるにはこのツボを買うことです」「印鑑を・」「水晶玉を・・」「掛軸を・・・」ということになります。その悩んでいる姿そのものが、もう地獄に落ちている。「悠々と生きる」ためには、地獄、極楽、天国や本尊など一切を自分のうちに秘める。しっかり地に足をつけて生活する。誰かがつくった神様や仏様、地獄や天国、極楽、運命、宿命、業に左右されない生き方をする。不軽菩薩が一切衆生の仏性に手を合わせたように生きる。そうすれば自分の敵も善知識です。日蓮大聖人の仏法はオオラカです。死んで極楽浄土に生まれ変わろうとか、最後の審判で天国へ行こうとかはオサラバです。
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ウクライナやロシア、そしてイスラエルやガザ地区を見ていると、どこかよそに自分が信じる対象がある宗教ではダメだと感じました。唯一絶対神の宗教でも、自身の内に神がいて、その他の人にも神が宿っているという信仰じゃないと宗教として欠陥があると思います。自分にも他人にも、信じる人にも信じない人にも神が宿っているとすれば戦争はないでしょう。不軽菩薩は誰彼構わず礼拝した。でも誰も礼拝してくれなかった。初めてそれに応えたのが日蓮です。 日蓮大聖人と不軽菩薩が礼拝し合った。ここに成道も平和もあります。寺や神社、教会でどこかよそにいる仏や神に祈る信仰では救いはないと思います。